YouTubeごっこ

このblog同様、YouTubeもごっこで終わりそうである。

twitterやFacebook 、そしてblogをやっているけど、YouTubeほど配信してその見返りが少ないコンテツも珍しいと感じている。
もちろんクオリティだとか構成だとかカテゴリだとか諸々の宣伝拡散だとかあるのだろうけど、素人がぼちぼち始めたとしてもぼちぼち反応やフォロー・フォロワーの関係になったりする体験が多いがYouTubeだけは例外。

もう少し言えば一つの投稿をするに要する労力(時間・機材・私財)が他のSNSやSMCとは桁違いに大きいわりに反応されないものはほぼ反応されない。

約半月経過して18本の動画をアップロード。
つまり1日1本以上動画を上げているのにたった12人しか登録されない。
箸にも棒にも引っ掛からない他愛もないtweetとしても1つか2つはいいね!やらコメントが入るのにYouTubeは全く音沙汰がない。
集まるカテゴリや興味を引くサムネや効果音、FinalCutProでの地道な編集などなど日々ブラッシュアップを重ねていることは勿論のこと、今までにない以上に打ち込んでいる。


なのに全く。

そこでもっと面白く!と前を向く強いメンタルがあれば良いのだが、正直もう心が折れそうだし、自分の無能っぷりが恨めしくYouTubeに”意味”などという要らないものまで求めてしまう心境だ。

YouTubeは素人がやると火傷するコンテンツに変わりつつある。(いや もう変わってる)

とりあえず始めてしまった手前、一ヶ月程度で音を上げるのは格好悪いのでせめて半年、メンタルが持ち堪えられれば1年だけは続けてみようと思う。
ただ、これもデジタルタトゥーなんだよね。
余計な情報と滑稽な姿を無人駅で晒している。。。 そんな気がする。

AppleWatchが要らなくなったわけぢゃない、要らなくなったと感じる自分が居るだけだ。

手元にあるのは恐らくseries6だと思う。
黒のアルミケース。
プロテクターも保護シートも貼ってないのでところどころキズがついているけど致命的なものもないし、誰かに「はい」ってあげても「ありがとう」って言われるレベルだと私的には思う。
充電しなくなって半月くらい、、、 や、1ヶ月くらい経つかな。
これくらい時が経つともう”要らない物リスト”の仲間入りだ。
あんなに欲しくて買ったくせに。

Appleは高価だが、買った時から暫くそれなりに興奮をくれる稀有なメーカーだ。
AppleがまだMacintoshを売っていたころだからもう30年くらいApple製品のどっぷりだったけど最近はなんだか荷が重いというかヘビーデュティー過ぎて扱いが難しい。
実際キッチンのiMacのOSはジェネレーションが2つばかり前だし、メインで使っているiMacはこのように稼働中だが、OSは前バージョンのままアップデートは打ち切られている。
それでも使えてしまう。

電化製品ならまだしも情報機器だぞ。

良くも悪くも製品寿命が長すぎるんだよ。
OSがバージョンアップ打ち切られてるのに、フツーの使い方なら全然現役、調子に乗って動画編集なんかするとCPUもメモリーも追っつかないからよくフリーズするけど、それでも他のアプリを並列処理していなければ1本の動画を作成するまでは持ちこたえてくれる。
良い子だ。
言わずもがなiPhoneだって、今春 大学生になる息子は流石にお母さんのお古のiPhone8PLUSではスペック的にも見た目もモデルも古いから14PLUSに換えたけど、私のは12mini、妻のは11PLUSで全然現役。


さぁ、ここにきてAppleWatchだよ。
AppleWatchなぞ外回り営業ならばスケジュール管理やら電話やらメールやら健康管理やら使い勝手は多岐にわたるが、もう完全隠居の身ではWatchはブルっとも震えない。
時間を見るためにわざわざ充電をする妙な腕時計になってしまった。
決して性能が落ちたわけでもOSのバージョンが切られたわけでも故障したわけでもないのに全く不要の長物になった。
身辺を見回すとそうした物で未だに溢れている。
ビジネスバッグもスーツも靴も筆記具もパソコン、その他周辺機器、カメラも、、、
要らないわけぢゃない。
要らないと感じる自分が居るだけだ。

やってみる 結果はその後

YouTubeを開設した。 ことは表向きにも公表してるけど見てくれてる人もいるという事実と、当たり前だが数字は思ったほど上がらないという現実。
これは思考がそうなのか欲をかきすぎるのかアップロードすれば意外にも反響が有るのではないか?と期待値高めになってしまう。

勢いも大切。と思い一気に数本上げてみたけど結果は散ざんたるものだった。
しかしだ。
期待値高めの希望を抱くより、兎に角 ほぼ毎日ペースでアップロードしてみたらどうだろうか?
欲を出さずまずは打席に立つだ。
無能な自分にはそれしかない…
後ろ向きではなく本当にそう思ふ。

死ぬ方が世界のためのように思えてきた

国も働ける人間と働けない人間とどちらが欲しいと問われれば前者だろうし、家庭でも父親は働いのいないといけない。

どちらにも該当しない自分はもう死んだ方がいいな…

かなり前から死のうと考えていたけど、明確な答えがなかった。でも冷静に判断すればやはり生きている価値はないし生きれば生きるほど世の中の負担にしかなってないことに気が付いた。

オーバードーズやビニール袋も考えたけど、恐怖感マックスの首吊りが安全確実だな。

その前に身辺整理をしないといけないから今月末は忙しいな。

自分だけぢゃなかった

がんと付き合いはじめてもうすぐ5年目にさしかかろうとしている。
ネガティブなことをブログに書き留めることはなんとなくタブーとしていたけど、どうせ誰も見てないブログなのでもう書くことにする。

「死にたい」と思い始めたのはやっぱりがんにかかってからかもしれない。
そしてそれは今も消えない。
がんに罹って治らない難治性の高いがん患者は毎晩寝るときに死神が添い寝しているのと同じで「死」というものが頭から離れない。

それだけではなく現実としてがんに罹ったら自分以外の時間はストップすることなく、否応無しに仕事、経済、生活といったものが漏れなく剥奪される。
そこから困窮の日々がスタートするのだ。
誰も助けてはくれない。
私は家族が居るのでまだ今現在は助かっているが一人だったらやっぱり自殺するだろう。

がんと鬱。この関係は大変興味深い。
がんの学会でも発表されているようで、がん患者は凡そ20%〜40%の確率で鬱になってそのうち自殺するみたい。
もしかしてセット?と思えるくらい私もバッチリ鬱だ。
うつ病と診断されることもあれば、私の場合は否定形うつ病という格好良い病名だけど、よーするに鬱です。
よく泣くし、よく死にたがるし、よく落ち込むし、よく動けなくなる
もう人としてどうしようもない状態になる。
でも誰も助けてくれない。

経験則で物を言うけど、精神科とか心療内科って鬱を治すところぢゃなくて、かろうじて会社に努めている人や社会と関わりがある人が聖なる書類である”診断書”を書いてもらう為の機関であることを忘れてはならない。
本当のうつ病患者はただ単に強めの薬で日々の活動を鈍化させられるだけで、根本的な治療やカウンセリングは無いと思っていい。

だからかな?毎日死にたい。
でも死ぬのって凄い大変だしビビってちゃ死ねないんだ。
なかなか死ねない。

そのうち死ねるかな?
最近はそんな風に思うようにしている。

生き辛い

生き方なんて自分で決めればいい。

生きたくなければ生きなければいい。

人生の途中で何で生きなければいけないのか分からなくなった。

本人は生きていたくないのに周りは死ぬなとゆう。

一体生きるとは何なんだ。

チキンもケーキもないクリスマス

クリスマス寒波と同時にサンタが町にやってくるらしい。

また今年も終わってしまいますね。
物理学では時間が逆回転しないのは不思議なことだそうで、逆回転出来ればあの時あーすれば良かったとか こーすれば上手く行ったのに… なんて後悔も増えそうで勘弁してもらいたい。
今更ながら今年も家族や友達、知人や社会の皆様に精一杯縋り付きながら生きた一年だったと思う。
でもそれを自分で許すことが出来るようになったのは良かったことだ。

家庭を持ち仕事を持ち健康で何不自由なく暮らしていた時も有ったけど、その時もそしてつい最近まで今の自分を許せていなかった。

人は、いや少なくとも大人は誠実で賢く世間一般のそうであるべき姿に極めて近く生きていくことが正しい。そう思っていた。

今年のはじめショッピングモールの駐車場で全然動かないタクシーを見た。
そのうちそのタクシーを赤色灯を点灯させたパトカーが囲み暫くすると複数の警察官が後部座席から項垂れた初老の男性を抱きかかえて下ろし、そのままパトカーの後部座席に乗せて署に向かった。
恐らく無賃乗車だろう。

年始めのお正月、ほとんどの人が希望と喜びで満ち溢れ新しい年を迎えてワクワクしている場所で少し騒然となった。
ガヤガヤしている人々の中、私はボロボロと涙を流して泣いていた。


なにもかも嫌になり消えたい。

そんな思いで失踪未遂をしたり自殺未遂をしたり。特に妻には大きな心配をかけて申し訳なかった。
自分が許せなかった。許せないくせに何も出来ない自分はもっと許せなかった。


なんとか 今日という日を生きることを目標に暮らす。
ただそれだけを思って今は生きています。

実家で時間を過ごす

2年前父が亡くなり実家の母は独居老人。

私は私で4年前10万人に1人とゆう当選確率で希少がんにかかり現在もフラフラ生きながら余生を送っている。

良くも悪くも時間は無限なので都合よく83歳の母の面倒を見るため最近は車で15分離れた実家へよく訪れるようになった。

母は現在腰を痛めていて歩行はできるけど重いものを持ったり庭木の剪定や雑草取り、溜まった新聞、空き缶、ペットボトル、ゴミの処理なんかも結構大変だし、車がないので買い物や病院へ行く事もできないので週1回は必ず、最近では週3くらいお呼びがかかるので実家で過ごす時間が多くなった。

自分がこの家で育った時間と外で暮らしていた時間がちょうど半々くらいになってきた。

実家にはインターネットもない。母は一時期スマホデビューしたがどうしても慣れる事ができずにガラケーへ戻ったので情報難民でもあり、テレビと新聞、そこに差し込まれているチラシ、そして近所に住んでいるおばちゃん達のゲナゲナ話が情報源。

未だにキムタクの子供がダウン症でそのため岐阜の病院にキムタクがよく来る…なんてゆう誰でも分かるデマを私に話してくれた。

不自由だが今はその温度感がちょうど良い。

若い頃は全く考えもしなった「母親には長生きしてほしい」とゆう感情が沸いてくる。私もすでに50を過ぎて初老ではあるが、歳を取れば取るほど親への思いは大きくなるのは不思議。

コロナでホテル

テレビや東京の人がコロナに罹ると思っていたんだか、田舎でもコロナに罹るとゆうことを自ら体現することになろうとは…

感染源は高校三年生の息子。

数日前に熱が出たので近所の耳鼻咽喉科へ連絡するも「抗体検査してから診察ですね」とのことで見事にビンゴ!  その日から自宅隔離するも、そーゆー簡単なトラップにすぐに引っ掛かってしまう私が濃厚接触者を通り越して見事にコロナ感染したとゆう。

ただこのままでは狭いアパートの中で三人家族全員がコロナ感染してしまうので間引きする形でホテル隔離となった。

ホテル隔離なんてのはなかなか難しいのかな?と思っていたが最も簡単に行政が連携し「あ」も「す」もなくホテルの832号室にぶち込まれた。。。  ま、今日はここまで。晴れて無罪放免になったらまた書き連ねます。

ジャズなんて知らないから

下の毛が生え始めた中学生の頃は大人になりたくて”洋楽”を矢鱈聴いた(フリ)と思う。
邦楽のPOPSやフォークってのはダサいというダサい考えだったし、周りの友達もカッコつけてやたら洋楽の話をしてくるので仕方なく…というのもあった。
正直 ”洋楽”に対して大した知識もなければ興味もなくそれが次第に”洋楽離れ”となり今に至る。


邦楽、洋楽、オールディーズ、ロック、フォーク、スウィング、ジャズ、ボサノバ、云云カンヌン…と音楽のジャンルが多様過ぎて50になった今でも絞りきれないでいる。
しかしながら最近ようやくマービン・ゲイやらフランク・シナトラを聴くと心が心地よいと感じるようで、どうでも良いドライブの時は大概ここらあたりの曲を流している。
そしてここにきて今ジャズなんですわ。

いまJAZZ

人間暇になると…というか、暇な人間は住まい近くの市立図書館だったりそうした公営の図書館に蔓延る習性があるのだと思う。
見るからに暇そうな人間が図書館のソファーや椅子に蹲りながらまるで銅像のように本を読みふけったり銅像のように全く動かず寝ている。
私は昔からじっとしていることが苦手だ。
特に喫茶店とかでコーヒーと本という組み合わせでマッタリすることが出来ない。
よくあんな少しの飲み物で分厚い本を何時間も読んでいるものだと関心するし、あの時間があるのならば他にやることやヤレルことがあるだろうと思うのだが…
恐らくあ〜ゆ〜人はメンタル強いんだろう。
だから図書館に行っても読破出来る出来ないに関わらず、興味のあるタイトルをいくつかムンズと書棚から引き出して貸し出し手続きをしてとっとと帰るようにしている。
ようにしているというよりそーする他無いからだけれど。
そしてそんな私に今空前のJAZZブームが来ている。


ブームと言っても大したブームではないのだろうけれど、自らの中ではお祭りが来ていて古めかしい言葉で言えばマイブームっちゅうやつですな。
良くも悪くも寝る間も惜しむとか白昼夢な状態で何かに没頭する質ではないので、おだやかに暇な空き時間をJAZZという音で満たしてみたい。ただそれだけなんだが。

この忌々しいWordPressを少しでも理解りようと予約まで入れて”WordPressレッスンブック”という本もついでに借りた。

JAZZに関して昨日今日でブームが来ている輩が何を言うでも無いが、平べったくゆうと超絶テクニックを持った人が良くわからないけど人をワクワクさせるような音をベラボウに奏でる事こそが(今の所)JAZZなんぢゃねーかな?と思っている。
なんとか坂48とかジャニーズのイケメン諸君のdance&musicも素晴らしいエンターテーメントなのだが、そーゆースチャラカしたものとは一線を画すものであり、それが廃れず伝承されしかもタダ同然でAppleMusicで簡単に検索してドパドパ垂れ流せるというなんとも贅沢な時代だ。

借りてきた書物の内容なんて読んでも仕方がないので私は目次や短い内容のindexの中から、良さそうな名称を選んでAppleMusicで検索をかける。
そのあとは”はじめての…”とか代表曲がchoiceされているので、1clickで1時間ほど楽に楽しめる。
その昔はどんな音楽でも1曲聴くだけでどれだけのお金と労力が必要だったか、、、
きっと私の息子は知らないはずだ。

ともかく、今JAZZが来ている。それはそーゆー理由だからなのだ。